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このページはハイパーコンテンツビルダーが 2007年 12月 25日 00時05分34秒 にクロールしたキャッシュ情報です。

ロータリーとは?

[ 211] 鹿児島ロータリークラブ
[引用サイト]  http://www.kagoshima-rc.or.jp/

鹿児島ロータリークラブのホームページでは、国際的奉仕団体であるロータリーについて、
鹿児島ロータリークラブでは、11月19日に鹿児島地方裁判所を訪問し『裁判員制度』
20世紀初頭,その頃経済恐慌で人心の荒れすさんでいたアメリカ、特にシカゴの街は、著しい社会経済の発展の陰で、商業道徳の欠如が目につくようになっていました。
ちょうどそのころ、ここに事務所を構えていた青年弁護士ポール・ハリスはこの風潮に堪えかね、友人3人と語らって、お互いに信頼のできる公正な取引をし、仕事上の付き合いがそのまま親友関係にまで発展するような仲間を増やしたい、という趣旨でロータリークラブという会合を考えました。
ロータリーとは集会を各自の事務所持ち回りで順番に開くことから名付けられたものです。
それからは志を同じくするクラブが、つぎつぎ各地に生まれ、国境を超えて、今では世界163ヶ国の地域に広がり、
そして、これら世界中のクラブの連合体を国際ロータリーと称します。
このように、歴史的に見ても、ロータリーとは職業倫理を重んずる実業人、専門職業人の集まりなのです。
その組織が地球の隅々にまで拡大するにつれて、ロータリーは世界に眼を開いて、幅広い奉仕活動を求められるようになり、現在は多方面にわたって多大の貢献をしています。
日本では、1920年(大正 9年)10月20日、当時三井銀行の重役であった米山梅吉氏が、初めて東京にこれを創立し、翌10年 4月 1日、世界で 855番目のクラブとして加盟承認されました。
その後第二次世界大戦のため、一時国際ロータリーから脱退するのもやむなきに至ったこともありましたが、その間もよくロータリーの精神を堅持して会合につとめ、その神髄と組織を維持し、戦後国際ロータリーに復帰するや、ますます発展、現在では北は北海道、南は沖縄まで、クラブ数 2,321、会員数 109,983人(2003年 3月末現在)に達し、なおすべての都市、すべての町にその理想の翼を広げる努力を続けております。
会員は、地域内の理想にもえる堅実な実業家、専門職人の中から定款により、基本的に1業種1人を選び、週1回のクラブ例会出席によって、各種職域人の交友を通じて地域社会へのより多くの奉仕の機会を得ようと努力しています。
創立半年前の4月28日に日米講和条約が発効し,独立を回復し,朝鮮戦争も終息の兆しを見せ,社会も落ち着き,産業活動も活発になり,我が国が新たな希望に向かって立ち上がるときに,友愛・奉仕の理想を示すロータリーの灯が,当時の日本列島最南端・鹿児島にも灯されました。
現在、鹿児島ロータリークラブ会員は、クラブ奉仕委員会・職業奉仕委員会・社会奉仕委員会・新世代委員会ならびに姉妹盟約クラブ委員会等に属し、各自それぞれの立場で奉仕活動に努力しています。

 

[ 212] ロータリークラブ
[引用サイト]  http://www.naka-club.org/

当クラブは昭和55年(1980年)4月17日に小田原ロータリークラブがスポンサーとなり誕生しました。
私達、小田原中ロータリークラブは、この7月より28年目を迎えております。個性豊かな人間性を備えた一人一人の永い活動によって、明るく楽しい雰囲気の中で、団結力のある奉仕活動を行っております。
ロータリークラブは世界に32681、会員数120万人を越える世界最大の国際的人道奉仕団体です。私たちもその中の1クラブとして、職業、地域社会、国際奉仕プログラム等を通じて一層の充実を計って行きます。多くの皆様方の会員と奉仕プログラムへの参加をお待ちしております。
本日は次年度ガバナーとしてお伺いいたしました。円滑な運営のためには会員の方々のご協力を頂かなくてはなりません。一生懸命努める所存でございますので、よろしくお願い申し上げます。
12月5日は私にとって“厄日”のようです。3年前には野中元理事長が病に倒れ、また、昨年は本店本部が営業しているナックビルからの立ちのきを要求されました。対策に東奔西走した結果、やっとのことで移転先がみつかった次第です。新住所に移りましても、よろしくお願いいたします。
話は変わりますが、振り込め詐欺の被害が最近になって増加傾向にあります。人間の心理を突いた巧妙な犯罪ですが、落ち着いて対処して、事前に防ぐよう日頃から心がけてください。
中小企業を対象に日米間で投資事業を進めて参りましたが、お蔭様で順調に推移しています。その中で、日本の中小企業のトップには理論的に会計について理解されていない方が多く見受けられます。私は企業人としては女性であることを意識していませんが『ロータリーの友』8月号に掲載されているRI初の女性理事の記事を読んで、感銘を受けました。女性としてお役に立つことがあれば協力いたしますが、これからも一人の人間として、またロータリアンとして皆様と同等に接してください。
バイキングという食事形式は今ではすっかり定着したようですが、1958年(昭和33年)に帝国ホテルの時の村上総料理長が広めたものです。ただし和製英語ですので、海外では通用しません。
海外旅行では、その国での宗教に因んだ習慣には気をつけてください。例えば、イスラム教の国では左手は不浄の手とされていますので、その手の使い方には細心の注意を払わないと手痛い目に会います。
私がこの仕事に携って4年ほどになりますが、生後間もない乳児から100歳を越えたお年寄りまで様々な葬儀に立会いました。そこに、親子・家族・夫婦の愛情の深さを感じて参りました。私は、死というのは故人にとっての新しい旅立ちだと思いますので、商売は別として相応の葬儀を執り行うことをお勧めいたします。葬儀のイメージも、従来のモノトーンからカラフルなものに変わりつつあります。これも時代の流れに合わせた現象でしょうが、何かございましたらお申しつけください。
会長ノミニーから会長エレクトとなり、責任の重大さをさらに痛感しております。組織運営は各々が助け合わなければ円滑に進みませんので、理事および役員の方々のご協力をもとに、半年後からの活動をしていきたいと思います。歴代会長のご指導と皆様のご理解とご支援を何卒よろしくお願いいたします。
理事のご指名を受け、大変光栄に存じます。理事会はクラブの決定機関ですので、何事においても理事会へ報告して頂き、“風通しの良いクラブ”を目ざしていきたいと思います。他の理事の皆様と共に川口会長を支えながら、少しでもクラブの発展につながるように努力して参る所存ですので、よろしくお願いいたします。
指名委員会より次次年度会長の指名を頂きましたが即答はできず、家族とも話し合い、熟慮の末に受諾いたしました。私が会長を受けても会員の方が支えてくださるだろうという前提のもとに、引き受けさせて頂いた次第です。幸いまだ1年以上もありますので、もう一度ロータリーについて勉強して“その時”に備えたいと思います。
私は1970年(昭和45年)に小田原RCに入会させて頂きましたが、当時はとても厳しく、お陰様でロータリーについての基本をみっちり教え込まれました。
小田原RC創立20周年の時に孫クラブ設立の動きがあり、1980年(昭和55年)に、私を含む7人で「小田原中ロータリークラブ」を設立しました。規律を重んじながらも和やかな雰囲気のうちに出席しやすく、ビジターが大勢見えられるようなクラブにしようという方針のもと、32名のメンバーを募りました。同時に、最終例会を夜間にしてクラブフォーラムにすることもきめられました。こうして、現在まで受け継がれているクラブの伝統が生まれたのです。発足当時はビジターも多く、食事が足らないといったことも多々ありました。また、新会員は先輩会員やビジターにお茶を配って回り、自分を紹介していたことも好評で、親睦が深まったように思います。
私はこれまで機会があるたびに“出会いの大切さ”を話して参りました。毎朝6時から行われているラジオ体操に平成17年6月30日より参加しています。何の変哲もない集まりですが、事あるたびに“ふれあいの大切さ”を感じます。人間どうしのつながりは日頃の出会いから生まれるもので、これはロータリーでも同じではないでしょうか。
ロータリアンになって38年目になりますが、ここまでくることができたのは小田原RC在籍中に教えられたことが生きているのだと思います。
小田原中ロータリークラブ設立の経緯は、梅津会員が話されたとおりで、自他称「39人の侍」の異名をとり、独特の雰囲気をもった、およそロータリーらしからぬロータリークラブが活動を始めた訳です。何も知らないまま入会しましたが、とにかく出席義務を守ることを心に決め、25年間皆出席を全うすることができました。新会員の頃は先輩会員よりロータリーの事を折りにつけて話して頂き、厳しいロータリーでしたが、人との出会いのロータリーであることも実感いたしました。同時に、地元の方々へアピールできたのもロータリーのお陰だと思っています。
こういう私も、入会当初は会費や寄付金活動に対して少し疑問に感じていましたが、理解が深まるにつれて「個人の奉仕」という考え方も納得できるようになり、私自身の人間形成にも良い影響を及ぼしてくれたと感謝しています。
ロータリーの本質は個人奉仕であり、職業奉仕・社会奉仕を続けなければその存続はありません。昨今の地区との“ねじれた関係”は周知の如くですが、クラブ・地区・本部が三位一体とならなければ、より以上の発展は望めません。若い会員の方々には、自分が所属するクラブだけの活性化を考えるのではなく、地区委員としても活躍して頂いてロータリーライフを楽しんでもらいたいと思います。
相模湾の定置網漁業は、県の沿岸漁業の主幹で総漁獲量の約60%を占めています。アジ、サバ、イワシ、ブリなどの暖水系回遊性魚類が中心ですので、漁業関係者は常に水温などの海の状況に留意しながら早朝4時頃から作業にとりかかります。定置網の問題点は、多くの生物が網に付着して抵抗を大きくすることで、網の手入れや管理はとても重要です。はかには台風などによる巨大波浪による被害もあります。
相模湾は水深が深い沖合いに口が開いた開放型の湾なので汚れやすく、大正年間と昭和30年?40年代の高度成長期の海の透明度を比較すると、昭和年間の汚染の激しさがよく分かります。陸地開発による有機物が河川を経由して相模湾へ流出し、海洋の汚濁負荷が増加することは否定できませんし、1993年の海洋生物調査では、従来の多種多様型から少種へ変化し沿岸性のものが増え生物層が変わっています。
当事業団は1971年2月に設立されましたが、配布しました資料のように、鈴木二六初代理事長はその頃から既に「山・川・海の水循環の大切さ」を訴えています。また、昨年のシンポジウムで安田善憲先生(国際日本文化研究センター教授)は、その基調講演で「相模湾の漁業は日本の未来を担う」と強調され、「相模湾での漁業がなりたっているのは、背後の山と森と水の循環によって相模湾の豊かな生態系が維持されているからで、魚介類性タンパク質の供給源が沿岸漁業だけという厳しい現実がまもなく目の前につきつけられるであろうし、日本人が生き残るためには、200海里以内の自国の海洋資源をどう守り育てていくかが鍵である。未来の日本人の食を守るうえにおいても、相模湾沿岸の漁業は活力を維持してもらわねばならない。そのためには東京に住む人も、そして相模川の流域に住む人も、すべての人々が沿岸漁業を守るために立ち上がることが必要でなのである」と述べられました。
さらにお二人は、森・里・海の水循環系の面からも共通して「稲作漁労」を再評価しています。詳細については、もう一度資料に目を通して頂ければ幸甚です。
以上をまとめてみますと、現在の相模湾の漁業と海洋環境を維持保全することが“最優先かつ最低限”であり、省エネ漁法とされる定置網漁業が活発になって私達の食料となる魚介類が安定的に生産されることが相模湾の環境が保全されている証しなのです。そのためには、山・川・海の水循環と生態系を攪乱せずに、管理・保全することが必要であると思われます。また、近年さけばれている「地産地消」を促進することがエネルギーをもっとも有効に利用することになり、相模湾の環境や生態系の維持保全のみならず、地球環境問題につながっていることを忘れてはいけないと思います。
私は、1971年から2年間インドのブッダガヤに滞在し、以来インド・チベット・カンボジアなどアジア全域の人類の文化遺産を中心に撮影活動を続けています。また、長年にわたりダライ・ラマとも親交を深めておりまして、『ダライ・ラマのことば』という本も出版させて頂きました。
インドへはエア・インディア航空を長い間利用していますが、数年前に待合室で出会った一人の女性のことをまずお話させて頂きます。彼女は東京大学医学部小児形成外科に勤務していて、偶然にも隣り合わせの席でした。未熟児で生まれつき重度な障がいをもった新生児を受け入れる窓口だった彼女は、死に直面した乳児を自分の命を賭けて守ることに日夜務めました。挫折感の連続と十字架のような重い責務を背負った彼女は、苦難の道を休むことなく歩き続けたのです。
その後彼女は南インドの農村を幾度となく訪れ、そこで知り合った老夫婦に家族の一員として受け入れられたのです。砂漠という厳しい自然環境で生活している者は、人間に対する愛情はすさまじく、底なしの愛、無償の愛、こんな表現のふさわしいものです。自分の目の前で幼い命が消えていくことに対し、自分が殺しているようなものという思いにかられたと思います。おそらく彼女は、老夫婦の家を訪れることで自分自身を癒していたのでしょう。
ところで、私が長年アジアを旅して感じたことは「知識では民族を救うことはできない」ということです。日本では、学校を含めたあらゆる教育システムが、知識というものを中心にモノを作ってきました。知識はモノ作りのためには重要なファクターですが、それだけでは民族を作り上げることは絶対に不可能だと感じます。知恵と知識が両輪となって民族ができ上がり、指導層の知恵がその民族の生きざまをを形成していきますが、逆に一歩間違えば民族の崩壊につながり、こういう恐ろしさはイラクをはじめアジアの各地で見てきました。あくまでも自論ですが、明治維新の“和魂洋才”は間違っていたのではないかと思います。日本人の魂に西洋の才能をとりこむことは無理なことで、果ては第二次世界大戦の失敗につながったのではないかと思います。
インドの村は、貧しいけれど心の安らぎを覚えますが、異国の地を歩いていても、私が生まれて育ったこの小田原のことを忘れることはありません。日本でも美しい村はまだ残されていますが、外国にいて自分の国を思うと、世界の国の中でも日本ほど美しい風景をもった国はないと断言できます。しかし、やたら近代化を進めてきた陰には失ったものも多く、これからは他国の民族も大切にしながら自分の国を大切にしていって欲しいと思います。
日本は今、大きな転機を迎えようとしているといわれているようですが、これからもご指導のほどよろしくお願い申し上げます。

 

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