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恐れとは?

[ 56] 疑い恐れ
[引用サイト]  http://members.jcom.home.ne.jp/wadamsm/fear.htm

嵐が近づいている湖に、主イエスは、強いて弟子たちのみで漕ぎ出させた。独り祈りつつあり給うた主様は、その時、湖に出られ、弟子たちのもとに行かれた。
24ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。25イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。26弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。27しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。(マタイ伝14章)
恐ろしい嵐に加え、何か分からない人の姿、それも水の上を歩いているのを見た弟子たちの恐れは、頂点に達した。しかしペテロは、さすがである。「あなたでしたか」でない。「あなたであるならば」である。絶対の信頼をよせる主である方に、嵐の中にあっても、近づこうとする。
28するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。29イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。30しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。31イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。32ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。
嵐の絶望状態のとき、主イエスは現れ、「恐れるな」と御声をかけられた。ペテロの、主の聖前にあって、一途な心は、賞賛に値する。しかし、怖れて、溺れだしたとき、主イエスは言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。
一方、信仰の力が働くために、神ご自身が人に、恐れないようにと言われる。恐れの環境にあるとき、「主が偕におられる」との信仰を励ますことが大切である。結局この二つの方向はひとつである。
6あなたがたは強く、かつ勇ましくなければならない。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう」。(申命記31章)
9わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。(ヨシュア記1章)
8恐れてはならない、またおののいてはならない。わたしはこの事を昔から、あなたがたに聞かせなかったか、また告げなかったか。あなたがたはわが証人である。わたしのほかに神があるか。わたしのほかに岩はない。わたしはそのあることを知らない」。(イザヤ書44章)
「あなたがたはわが証人である」という御言葉は、恐れを取り除き、勇気を湧き上がらせる。人は、自己弁護より、大いなる方への忠誠の力によって、雄雄しくなる。
恐れと疑いは、信仰の力を失わせる。全能のキリストと偕に生きながら、この世の常識に支配されだし、キリストの全能を信ずる信仰が崩れる。信仰が信仰にならない。
疑い怖れながら信ずるのは、一つであるべき心が分裂した状態である。これほど悲惨なことはない。このような信者に投げかける言葉がある。
14ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。15わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。16このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。(黙示録3章)
さらに悪いことに、この分裂状態を自覚していない。ラオデキヤ地方は、衣類と目薬の産地で、裕福である。またその温泉はぬるい。この皮肉は強烈である。物質的繁栄を超えよ。
17あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。18そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
19すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。20見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。21勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。22耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。
右か左か決めよとせまられるのは、厳しいともいえる。しかし主様はねんごろに、信仰を強めようと、励ましておられる。
難しいといわれる黙示録は、このように、初代教会時代の、迫害や異教の攻撃のなかで、恐れて落ちそうな信仰者への、強め励ましに満ちている。それは、いつの時代でも、現在でも同様である。
16わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。17わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。18愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。19わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。(ヨハネ第一書4章)
「愛には恐れがない」とは、何とすばらしい言葉であろうか。新約聖書が言う「愛」が、怖れを除く。それは、ここに示されるように、神の愛である。十字架の前後に表されたキリストの愛である。
「愛には恐れがない」というのは、「愛の中には」と読むべきである。恐れが消えるような愛を持つことこそ、私たちが贖われた究極の目的である。
神の懐にあるものには、恐れがない。神の愛に包まれているときの状況である。それは、私たちに神の霊が臨んでいるからである。そして何事も積極的に当ることができる。
この神の愛を疑いながら信じていたのでは、怖れは除かれない。残念ながら、人はどうにもならない状況が来なければ、一歩も踏み出せない。しかし、「子供が見えない」と叫んで、制止を振り切って、恐ろしい炎の中に飛び込んで行く母の姿に、素朴な人間にも与えられた愛の原型をみる。
自我があると、自分の滅亡を心配することに閉じこもり、それが怖れにつながる。逆に、怖れを取り除くような愛こそ、主イエス・キリストが高唱されたものである。十字架の死に至るまで、私たちのために、真の愛をもって生きられた。これに応答することが、自らも十字架を負う信仰である。
それでも、疑い恐れの波をかぶることがある。その時こそ、全身全霊をもって、キリストに依り頼む。こうして信仰が向上する。
バプテスマのヨハネは、獄中に呻吟しつつ、自分がバプテスマをほどこした主イエスの働きを聞いていた。この方こそ、神の小羊(ヨハネ伝1章29節)と、世に紹介したヨハネであったが、自分の生き方との違いに、「キリストともあろう者が」と疑い、躓きかけた。疑いつつも、ヨハネの、「きたるべきかた」を求める熱心は、行動させた。
2さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、3イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。4イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。5盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。6わたしにつまずかない者は、さいわいである」。(マタイ伝11章)
主イエスは、決して宗教問答のようには応じられなかった。ただ、何をなしているかを語られた。「この事実を見よ」が大事であった。だからこそ、「つまずくな」と、かつての先輩を思いやって、言うべきことを、曲げずに、はっきり述べておられる。

 

[ 57] カウンセリングサービス■心理学講座「恐れと真実の心理学」
[引用サイト]  http://www.counselingservice.jp/lecture/lec53.html

恐れというのは私たちに日常的につきまとう感情です。 恐れがないという人はいないんじゃないでしょうか?
なんて、あまり感じたくないですよね。だって、しんどくなったり、疲れてしまったり、
になります。私たちは、過去の経験からいろんなことを学びます。過去の嫌な経験、
もう嫌な目にあわないように、もう失敗しないように、もう傷つかないように、防衛する
“この人と付き合えたらムフフフ・・・あんなことも、こんなこともムフフ・・・”と
ネガティブラインでは“振られてしまったらどうしよう、嫌われちゃったらどうしよう”
告白で断られた経験が無くても、過去に人から拒絶されたと思った経験や、愛を受け取って
くださいと思って近づいたのに受け取ってくれなくて傷ついてしまった経験から、もうあの
時のように傷つくのは嫌だ、ハートが痛くなる思いは嫌だという恐れの感情が生まれます。
もう傷つかないようにという“過去の経験からの未来への防衛”が恐れの正体なんですね。
その人は昔お父さんに、こっぴどく怒られた経験があり、その経験からどうも目上の男性を見る
と自分に きつくあたったり、厳しくしたりする恐いイメージがするそうでした。
学生時代は空手をしており体育会系のクラブらしく、クラブの先輩は厳しかったそうです。
そこで、更に目上の男性に対して、きつそうなイメージや、厳しいイメージは強化されていきま
そして、その彼は社会人になった時、会社の上司を見ると目上の男性ばかり、(入社当時は、そり
ゃそうですね。)目上の男性に対してキツイ、厳しいのイメージを持つ彼は、上司に対して苦手意
識ができていました。その苦手意識というものは、キツイことを言われるのでは?厳しいことを言
上司に対して苦手意識がある彼は、なるべく上司と目をあわさないようにして、なるべく声をかけ
しかし、幸か不幸か彼は仕事ができたので上司に信頼され重要な仕事を頼まれたり、声をかけられ
ご相談いただいた彼は、過去の経験から目上の男性にキツイ、厳しいのイメージを思い浮かべてしま
い苦手になっているとのことでしたが、では今の会社の上司は本当に厳しい人だろうか?自分にキツ
ク当たる人なんだろうか?とよくよく考えるとそうとは限らないわけですよね。
ですが、恐れがあるから、なるべく目を合わせないように、なるべく声をかけられないように一生懸
恋愛でこっぴどい目にあった女性でしたら、「男なんて・・・」と男性に対して嫌なイメージをもって
信用していた人に裏切られた経験がある人だったら「人ってどうせ自分のことばかりしか考えないんだ」
確かに、ひどい男性や、裏切る人はいるかもしれませんが、世の中全員がそうかというとそうじゃなな
いい人もメチャクチャ多くいると思いますが、恐れがあると真実が見えなくなってしまい恐ればかりを
恐れで真実が見えなくなり、身動きが取れなくなったり、自分を苦しめてしまう時は、
先ほどの会社の上司が苦手というご相談いただいたクライアントさんとカウンセリングをしていくうちに、
過去の経験から上司を恐れてばかりいて真実をみていなかったんだなぁ、その人自身をみていなかったん
「勇気がいりますが、一度あなたのほうから、その上司にお酒を飲みに誘ってみては
でも苦手な上司からなるべく目を合わせないように、なるべく声をかけられないようにと逃げ続けつづ
けるのもストレスになりますから、恐れに飛び込んで向かい合ってみたほうがストレスが減ると考えて
「いや〜、飲みに行きましょうって声をかけるまではもう心臓がドキドキしてビビッてましたけど、飲み
上司に対する見方が変わって、会社でも少し気軽にいられるようになりました。」
このクライアントさんも上司からなるべく目を合わせないように、なるべく声をかけられないようにと
逃げ続けていたわけですが、でも、逃げてもこの恐れは追っかけてきていたんですね。
人は、恐れに恐れているときが一番恐いですから、時には恐れに飛び込んで向かい合ってみることが大事
もちろん勇気がいりますが、恐れの中に居続けるよりも、飛び込んで恐れという幻想を真実に変えること
しかし、恐れという感情自体がしんどかったり、疲れたりするもので、まったく駄目で役に立たないもの
「これ以上太ったらやばいなー」って思えるからこそ食事に気をつけて体重をコントロールをしようとし
たり(まぁ、僕自身が今そうなんですが・・・・)火事は、恐いと思うから火の始末や、ガスの元栓の
恐いという感情がなければ、体の管理をせずに食べ過ぎてしまうと肝臓がフォアグラ状態になってしまっ
たり、台所で天ぷらを揚げっぱなしでお昼寝してしまったり、家の中で花火をしてしまったりしかねません
これも“恐い”という感情が、“危ないからやめときなさい”という信号をだしているから、恐いから、
そういう意味では、恐れは僕たちに欠かせない感情ですし、とても役に立っていると思います。
そのいっぽう、恐いという感情が、僕たちの行動を邪魔したり、しんどくさせてしまったり、疲れさせて
その一つに“この恐れは真実か?”という疑問を自分に投げかけてみるといいと思います。
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[ 58] 恐れ/哲学掲示板
[引用サイト]  http://aurasoul.vis.ne.jp/_tetsugaku_tetsugaku/238.html

満月 ★Yrz2xYV7KeA私は恐れてばかりいた。先のことについて、恐れが止まらなかった。その結果、一番恐れていた状況におちいった。恐れとは何か。なぜ恐れるのか。恐れは必要なのか。それとも不必要なのか。また、みなさんが最も恐れることはなんだろうか。恐れ、不安について考えたい。
まふ ★4qlvK68xYmw久しぶりに帰ってきました。恐れとは・・・心が関係していると思います。そして、人間が持っている【凡やり】した感情で作られていると思います。これって言うものは恐怖はなさそうですね。不安は・・・恐れよりも、簡単な物に思われます。これは頭脳が関係してそうです。頭脳で計算して、合わないことに不安を感じるようになると思います。結局、恐れとか、不安定は、本当の恐怖がくる所まで進む間のことではないかと思われます。待つ間が、一番の不安で、恐怖ではなかろうか?不安材料や恐怖の対象物が去れば、不安や恐れはなくなってしまうということです。ということは、【不安】や【恐れ】は本当はしなくてもよいということになりますよ。私にとっての恐れと不安は・・・死ぬんじゃなかろうかっていう考え方です。2006/09/15 15:16 No.1
満月 ★y8I6t0TxwG6なるほど。不安は思考的で恐れはぼんやり感情的ということでしょうか。しかしぼんやりした(漠然とした)不安もあると思います。私の考えでは不安と恐れはほぼ一緒です。しかし、恐れのほうが比較的対象がはっきりしているような気がします。私は、人生が、その生きる瞬間瞬間が細い一本道のような気がしてそこから崖の下を見下ろしてしまい、落ちることを恐れてしまうのです。2006/09/15 20:15 No.2
まふ ★5nI1dopczQw満月さんへ価値観の違いだと思いますが、私は正直言って、ぼんやりした不安はないです。不安はとにかく、安定していなければ、起きないということなのです。日常の生活があり、そのとき大切にしていたガラスの額縁が割れれば、不吉となり不安に変わります。って言うことは、不安は必ず【頭脳の計算】が関わってきます。恐れは、どちらかというと本能の部類です。要するに形のないぼんやりとした感情なのです。人間の中にも本能の恐れがあります。例えば崖、暗闇、大柄な生物、大きな音ですよ。それが、恐れに入ると思います。【恐れ】から、頭脳計算に入り【不安】になると思います。要するに恐れは【点】です。不安が【理由が無い先の出来事・未来】です。満月さんは恐れてばかりきたといっていますが・・・それに関しては、多分、【他人】という点であって、本能の部類と思います。2006/09/15 21:27 No.3
満月 ★y8I6t0TxwG6なんとなく分かります。恐れは「点」で不安は「線」ということでしょうか。確かに、不安になる時、思考しています。先のことを思考しています。恐れの場合は、思考が無く、というより具体的な形、観念が浮かび上がらず、身体的に直観(本能)しているかもしれません。2006/09/16 01:25 No.4
まふ ★z2RPV6Q99TE満月さんへそこでなんだが・・・恐れや、不安などの【存在意義】はなんだろうか?漫画【バ○ボンド】、武蔵と佐々木小次郎の話ですが・・・そこで、一刀斎や沢庵坊主が佐々木小次郎に、【恐怖を知らない人は早死にする】みたいなことを言っていた。実は俺がそれなのである。不安があるのだが・・・恐怖が無いのだ(笑)実際に危ない目に会っていないからそういうことを感じないのかもしれないけど・・・恐れ・不安は一時、人間の行動を止める。んが、それが無ければ早死にする。無謀ってヤツか?恐れや不安の存在意義はなんだろうか?2006/09/16 11:24 No.5
満月 ★fxiM08KCUCE恐怖を感じないとは… すごいですね・・;肉体の死やゲガに対する恐れというのはやはり生物としてのものではないでしょうか。それが無い生物がいたとしてもすぐに滅んでしまって、結果的に存在できないでしょう。(バガボンドは僕も読みますよ。興味深い漫画です。2006/09/16 21:08 No.6

 

[ 59] 神を畏れる・聖い恐れ
[引用サイト]  http://www5b.biglobe.ne.jp/~shinju/osore.htm

分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら 銀を求めるようにそれを尋ね 宝物を求めるようにそれを探すなら
人は生まれつき、知りたいと望む。けれども多く知ったところで、神を畏れる心がなければ、なんの役に立とう。
多く知り深く学ぶほどあなたの生活がいよいよ聖にならないならば、それだけあなたは厳しく審判かれるだろう。
それゆえどんなに技芸(わざ)や学問があっても高ぶってはならぬ。むしろあなたに与えられた知識のために恐れ慎むべきである。
知恵は、私の祖父母に若い時から墓に至るまで、神にふさわしく生きることを悟らせ、自然の災いから守る幕屋のように、罪を犯す危険から守ったのである。神への聖なる恐れは知恵の木の土台で、そこから平和の中の静かな愛の頂上に至るための、すべての枝を伸ばすのである。
その後は あなたのうちに畏敬の霊がおかれ、私の気を害うのを案じるようになる。私の知恵の実を 霊は味わい、その後 私のもとに来るたびごと 来ては我が荘厳さを前に、あなたは畏怖して、膝をつく。私への畏れは本当に 知恵の冠。私への畏れはいのちの木にとって 根の部分。
「主を畏れる人は、主を喜ばせようと心がける(*)。」それを知らなかった者は、来なさい、自らへりくだってつき従い 二度と心が離れていかないよう 私のうちにあなたの愛が育つにまかせなさい。
御父 および至高者の子どもよ、伴侶なる方の伴侶、聖霊の庭園よ、至聖なる三位一体の 実りよ、「主への畏れ」とは、何であるか、知っていますか?それは悪なるすべて そして神に反するすべてを憎む という意味です。神は 全善、柔和で、やさしく、慈しみ深いお方、愛と真理であられます。では霊魂に神を畏れさせ 神があなたを全き者にして下さるにまかせなさい。主への畏れは知恵の始まり そして知恵は単なる幼児に与えられます 天のみ国はこのような者たちに与えられるからです、そこで心を入れ換え悪意から解放されなければ 決して神のみ国には入れないでしょう。
全般的に言って、恐れには二種類のものがある。すなわち神聖でないものにおける恐れと神聖なものにおける恐れである。神聖でないものにおける恐れは邪悪な者がその中にいる恐れであるが、神聖なものにおける恐れは善良な者がその中にいる恐れである。この後の恐れはすなわち善良な者たちがその中にいる恐れは敬虔なまたは神聖な恐れと呼ばれて、神的なものに対するわたしたちの驚異と渇望の結果であり、またわたしたちの愛の結果である。敬虔なまたは神聖な恐れを欠いた愛はいわば風味を欠いており、または塩で味つけされていない食物のようであり、従って味気ないものであるが、しかし恐れを伴った愛は味つけされてはいるが、塩味のない食物のようなものである(?)。
愛の恐れは主を何らかの点で害いはしないか、または隣人を何らかの点で害いはしないか、かくて善い真のものを何らかの点で害いはしないか、従って愛と信仰の神聖なものを、またそこから生まれてくる礼拝を害いはしないかとの恐れである。しかしこの恐れには種々のものがあって、人により異なっているのである。
全般的に言って、善と真理の愛の量が大きくなるに応じて益々善と真理とを害いはしないかとの恐れが大きくなっており、しかもそれと同じ釣合いでこの恐れは恐れであるようには見えなくなっているが、それに反し善と真理との愛の量が少なくなるに応じて、益々善と真理のために恐れる思いが少なくなり、また益々その恐れは愛であるようには見えなくなって、恐れのように見えてくるのであり、そこからこのような者のもとには地獄の恐怖が生まれてくるのである。善と真理との愛が何ら存在しないときは、敬虔なまたは神聖な恐れは何ら存在しないのであり、たんに名誉を、利得を失いはしないか、それらのもののために世評を失いはしないか、また刑罰を受けはしないか、死にはしないかとの恐れにすぎないのであり、この恐れは外なるものであって、主として身体と自然的な人とその思いとに影響しているが、それに反し前の恐れは、すなわち敬虔なまたは神聖な恐れは主として霊に、すなわち、内なる人とその良心とに影響しているのである。
聖言にそのように言われているのは(エホバの怒り)、かれらが神を恐れることを知って、かれら自身が行う悪により滅びないためであり、後になって神を愛するためである。なぜなら愛の中に聖い恐れが存在するためには、恐れが愛に先行しなくてはならないからである。なぜなら恐れが愛の中に注がれると、それは愛の聖いものから聖いものとなって、そのときはそれは主が怒られ、罰せられるのを恐れる恐れではなくなり、自分たちが善そのものに反したことを行いはしないかとの恐れとなるからである。それはそのことが良心を苦しめるためである。
高いところに上げられても、いつも自分自身であることを願った。世界に派遣されたとき、あなたの名前においてではなく、私の名において証をした。偏見によって裁かれたが、肉体的恐れがあなたを印象づけるのではなく、神への聖なる畏れと、そのすべてが優勢を占めた。
その後は あなたのうちに畏敬の霊がおかれ、私の気を害うのを案じるようになる。私の知恵の実を 霊は味わい、その後 私のもとに来るたびごと 来ては我が荘厳さを前に、あなたは畏怖して、膝をつく。私への畏れは本当に 知恵の冠。私への畏れはいのちの木にとって 根の部分。
おまえは、その仕事でいつも危険にさらされている。神はおまえと一緒におられるから嵐を恐れるな。しかし、おまえと一緒に不正があれば強く恐れよ。分かったか。
「皆、出ろ!こう言えるのは、マルタのはずだが、彼女は、あなたたちを恐れているから。しかし私は、私をゆるしてくださった神に背くこと、それだけを恐れている。こうしてマルタの代りに言う、皆、出ろ!この家では、イエズス・キリストを憎む人のために場所がない。さあ、外へ!おまえたちの闇の穴ぐらへ!皆、外へ。それとも、おまえたちを不浄の乞食の群れのように、うちの僕たちに追い出させようか」
その憤慨でいきり立ったマリアが、美しく、威厳をもって叫ぶ。極端に卑怯ものであるユダヤ人たちは、彼女の前にコソコソ行く。かの婦人は、憤慨している大天使さながらである。
我々はもう知恵者ではない。知恵の源は神に対する畏れであるのに、我々は神への畏れを捨てた単なる罪人だからだ。
死は、悲しいことではありません。私たちが悲しむべき唯一のことは、自分が聖なる者になっていないという事実だけです。

 

[ 60] 恐れ
[引用サイト]  http://www1.ttcn.ne.jp/~turu/18osore.htm

今のこの三次元地球における現象世界で、皆様が行動、活動をしているその基本要因は100%恐れにあるようです。原点として肉体維持のために仕事をします。源の恐れです。より快適にと、より良い環境、より良い待遇を得ようと頑張ります。見下されることを恐れる人は、常に上を目指さなければなりません。基本環境が整うと、その維持に躍起になります。せっかく築いた環境を失いたくないからです。まわりの人達とうまくやっていくために気を使い、より優れようと努力します。誤解されないよう、悪く思われないよう細心の注意が必要です。常に気が抜けません。
持たないことを恐れ、持ったらそれを失うことを恐れます。どんなモノも手に入れたとたん壊れ始めるからです。あなたのエゴの観点から見れば、決して恐れから逃れることは出来ません。恐れは、逃避しようとすればするほど、エネルギーを増してあなたを襲ってきます。
恐れの解消法は2種類あります。ひとつはこれまであなたがチャレンジしてきた古典的やり方、すなわちあなたの外側にある現実に対処するというやり方です。攻撃して撃退するか、逃げ出すか、そのどちらかですが、そんなやり方では絶対に究極的安心感が得られないことはもうすでにご存じの事でしょう。そろそろ恐れの根本原因であるあなたの内側の価値観に意識を向け始めるときが来たようです。
  人は愛する人を得たいと努力してきました。愛する人のいない生活に意味を見いだせないのです。「存在する事の価値」に気付いていない人は、愛されるに値する人間にならなければなりません。「仲良くしたい」も、「愛されたい」も、基本的には孤立することを恐れているからです。まわりの人達からの拒絶を極端に恐れ、偉くなりたい、人に褒められたい、認められたいという衝動に対処しているわけです。愛を分かち合う人が出来たら出来たで、今度は一度得た友人や愛人を、失わないようにと日夜努力が要求されます。
  「存在する事の価値」に気付いていない人達は、傷つくことを恐れています。他人からの拒絶を恐れます。では、どうして拒絶されることを恐れるのでしょうか? 拒絶の恐れは、人から嫌われたら生きづらくなる、不利であるという程度のものにすぎないのですが、人は今や拒絶そのものを恐れています。拒絶されたと判断したとたん、心は猛烈な反撃を開始します。「存在」が傷つくことなどあり得ないというのに・・・。
でも本当はあなたを拒絶することを目的として、あなたを拒否する人がいるわけではありません。あなたが拒絶されたと判断したその相手は、単に自分が傷つかないように防衛しているか、すでに傷ついてしまった心を癒そうとして、そのような態度をとっているにすぎないのです。そんな傷つきやすい人を恐れる必要などないのです。あなたが常に愛を持って接していれば、どんな人も恐れる必要なんかありません。
人に愛を持てなくなるのは、あなたが傷つくからです。人は「無条件の愛」という言葉を聞くと、それが素晴らしいことであることを誰でも知っていながら、でも自分には出来ないと言います。それはこれまでの自分の人生の中で、人に優しく出来なかったときの記憶があるからです。
どんな時、人に優しくできなかったか思い出してみて下さい。人に意地悪な思いがわいてきたのは決まって自分が傷ついていた時、イライラしていた時であったはずです。ですから大切なことは、あなたが傷つかないようにすることです。気分のいいときは、誰でも人に優しくなるものです。では自分が傷つかないようにするにはどうすればいいのでしょうか。あなたはこれまで他人の言葉や態度によって傷ついた記憶があるので、自分が傷つくのは他人のせいであると勘違いしていますが、実は他人の態度を契機として、あなたの内面にある否定的価値観が表面意識に上がってくることによって、あなたは傷つきます。あなたを傷つけ続けているのは、あなたの抱いた否定的価値観です。他人の態度があなたの手放すべき考え方を教えてくれているわけです。
「このくらいしてくれて当たり前」、「このくらい出来るのが常識」と思っていると、してくれない相手を咎めます。出来ない相手に苛立ちます。あなたの「あの人は冷たい」という思いがあなたの心にトゲを刺します。あなたをイライラさせる張本人は、この「してくれて当たり前」、「出来るのが常識」という考え方にあります。すべきであるといった断定的考え方があなたの心を傷つけます。どうか勇気を奮って、「そんなの当たり前、誰でもそう思っているのだから」という考え方を全て手放して下さい。あなたの思っているみんなも間違っているかもしれないのですから。
自分ひとりだけ非常識なことをするのを恐れないで下さい。誰かがやり始める必要があるのです。これまで使い古されてきた常識という固定的価値観を、白紙に戻すことによってのみ、この社会は変わり始めます。この社会を変えるのに弁舌を持って他人を動かそうとしても変わりません。社会はあなたの反映なのですから。あなたひとりがその意識を変えることによって、あなたの見える宇宙全てが変わってしまいます。地球を変えるのに、あなたひとりの意識の変容で事足りるのです。他人の抱いている固定観念を変えようと努力する必要はないのです。
もしもあなたのまわりの誰かが、光り以外の何かに見えているとしたら、それはあなたの中に、何らかのかげりがまだ残っているという証拠にすぎません。あなたがある人を嫌いだとしたら、その人の欠点を見つけだしている自分に気付いて下さい。その人の中に見える欠点を、欠点と認識するために使ったあなたのモノサシは何でしょうか。他人を良くないと判定するための尺度に用いたあなたの価値観を見つけて下さい。
その価値観の対極にある考え方は何ですか。その対極する価値観を使ってあなたの判断の天秤ばかりがバランスするように持ってきて下さい。あなたの価値観をニュートラルにするという事です。あなたの抱いてきた価値観が、「どちらでもよい」とニュートラルになると、そのことに対して比較することが出来なくなります。比較するための尺度がないからです。比較しなくなったら判断もできません。
このとき、人は初めて判断しない人生を生きられるようになってきます。比較するな、判断するなと教えられても、モノサシを持っている以上、瞬間的に無意識に条件反射的に判断が起きてしまうものです。あなたの抱いている全ての、善し悪しの価値観を手放して下さい。あなたの疑うことのない正しさに対局する価値観をさがし、価値をバランスさせ、ニュートラルにして下さい。
  この時、人は比較判断が出来なくなります。判断しなくなったあなたの心は揺れようがありません。こうして人は不動心を獲得します。正しさを握っている限り、社会の現実を見て、心を動かさないではいられません。正しさを持っている限り、そこに悪を発見するからです。
不動心を得た人は、現実を感情を交えず見ることが出来るようになります。即ちあるものをあるがままに観るわけです。全てのものを、全ての人を正観出来るようになります。見えてくるものの奥にある「存在」が感じられるようになってきます。「ただ在る事のすばらしさ」がわかるようになってきます。至福に満たされます。存在の美しさ、存在する事の素晴らしさを実感します。決して変わることのない、永遠の巨大な存在を感じられるようになってきます。
「私は今なぜこんなに頭が悪く、力が無く、矛盾だらけのジレンマの社会に生きているのか? 私が神であるはずがない」と考える人は、「だから我々は互いに掛ける迷惑を、最小限に止められるよう我慢しあってひっそりと生きていかなければいけない」という考え方が正論となります。これまでの考え方です。
この反対に、自分が神である事を疑わずに真理の中心にすえた時、「ではなぜ、神であるはずの私が矛盾をとく智恵がなく、問題を解決する力がないのか」と、その解答を用意する必要が生じます。神である我々が、ジレンマ社会にいるとしたら、それを体験してみたくて、ちょっと遊びに来ているのだとしか考えられません。子どもが恐いジェットコースターにわざわざお金を払って遊びに来るように・・・。
そして全ての現実を創っている自分が創造者であることを受け入れたとき、自分のまわりで起きる全てに責任を取ったとき、もはや永久に被害者にはなり得なくなります。被害者にならないとは、もはやあなたは永遠に傷つくことがないということです。もう自分は傷つくことがない、自分は永遠に安全であると想像してみて下さい。どんなに安らかにくつろげることでしょう。自分はそのためにこそ、これまであくせく頑張ってきたのだとは思いませんか? 本当はその感覚が欲しかったのではありませんか?
そうなのです。自分に起こってくる現実の総てに対して、自分が責任を取ったとき、あなたはその瞬間から永遠にくつろげる豊かで、自由な存在へと変わります。これは難しいことではありません。単に「自分の見るもの聴くものは総て自分のハイヤーセルフが、私のために創り出してくれているのだ」という、この一点を受け入れてしまえばそれで終わりです。それだけであなたは完全なる安全を手にします、完全なる安らぎに浸れます。
どうか恐怖から逃れようと、責任を取ることを回避するのではなく、勇敢に総ての責任を受け入れて下さい。本当に「総て」にです。永遠に傷つかない人だけが、永遠に人に優しくできます。それが無条件の愛の体現者のことです。すなわち「無条件の愛」を体現するための必須要件が、自分が傷つかないということです。
あなたが永久に傷つかなくなったとき、あなたが永久に被害にあわなくなったとき、それは即ちあなたの世界から完全に加害者が消える瞬間でもあります。あなたの世界に加害者を出現させていたのは即ちあなた自身だったのです。あなたが自分を守りたかったからです。そうさせたのはあなたの恐れなのですが、あなたが「自分を守ろう」と決めたとき、ハイヤーセルフはあなたの希望どおり守らねばならない敵をあなたのために用意して下さいます。
あなたの唯一最大の敵は「自分を守ろう」という思いにありました。どうか進んで勇気を奮って自分を解放して下さい。「守る必要なんか一切ないのだ」という一見無謀な考え方を受け入れてみて下さい。そこからあなたの安心がやってきます。その時あなたの世界から、あなたを攻撃するものが消えていきます。天災にもあわなくなります。事故も起きなくなってきます。それを創っていたのがあなたの「自分を守る」という理性にあったのですから・・・。
「自分を攻撃していたのは自分の思いであった」「自分の心を揺さぶっていたのは自分の抱いた価値観にあった」こんな簡単な理屈を、人はやっと理解できるところまで意が上がってきたようです。

 

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[引用サイト]  http://hrclub.daijob.com/hrclub/?p=308

次のステップはその ”犯人”である 「恐れ」に名前を付けて呼んでみることです。この作業には、多少の深い考察が必要です。「恐れ」 は忍び寄るかのように、密かに自己主張します。私たちは多くの場合私たちが抱く 「恐れ」 とその及ぼす力を意識できません。自分の 「恐れ」 を自覚することは怖いことかも知れませんし、勇気のいる作業です。私たちはありえそうな合理的な形で、行きたい方向に向かうことを正当化するのが上手です。「時間がない」とか、「他にやらないといけないことがある」または、「今の生活は悪くない」とか、「その前にA,BとCをやらないといけない」、「私はこういう人間だ」、「私のせいじゃない」 けれども実際作用しているものに気付くことができれば何かできるはずです。私の場合、書くことができなくなった理由が「恐れ」だと気付いた時、初めて書くことを「恐れ」から切り離してみることができました。「恐れ」は前に進み、目標を達成することを阻むもの。そして私たちの味方、保護者でもあります。これからそのことについて書きます。
「恐れ」は不思議なもので、多くの場合は論理的ではありません。ほとんどの場合私たちは存在しない、まだ起こっていない何かに怯えています。その出来事自体ではなく、そのことがもし起こったらどうなるかということに怯えています。そして私たちは「恐れ」をたいていの場合、悪い出来事と結び付けます。失敗すること、技術不足、災いを招くことを恐れます。私たちの意識はあまり「恐れ」を成功と結び付ける方向には向かいません。それは同時に起きることが多いのです。新しいプロジェクトを始めるとき、失敗するのではないかと心配になり、その結果感じるかもしれない恥ずかしさや、自分を疑ってしまうことを恐れます。しかし同時に成功した場合、新たに生じる責任(プロジェクトが増えること)なども恐れます。人脈作りの席では、人に気に留めてもらえないことを恐れ、同時に注目されると、「何を言ったらいいのか」などと恐れてしまいます。
「人生を変えてみよう」、「転職をしよう」と思う時はわくわくするのと同時に、その過程で遭遇しそうなことに怯えます。自分の真の姿に近づけば近づくほど怖さが増すものです。もし必要な才能やチャンスが全てあったらどうしよう?でも、同時に、「もしがっかりすることになったら」と思うと同じくらい怖いのです。マリアン・ウィリアムソンのこんな有名な言葉があります。
“最大の「恐れ」は、自分が無力だと思ってしまうことではありません。最大の「恐れ」は、自分が測り知れなほど強力な力を持っていることです。私たちが最も恐れるのは闇ではなくて光なのです。”
この“測り知れない力”とは私たちコーチが時々使う“未開拓な可能性”であり、使ったことのない「無」は「恐れ」と密接に結びついています。不本意なことから手を切れば、何も残らなくなることへの「恐れ」です。そしてこれは危なっかしい場所です。つまり必要なものがないということは、行き詰っているところに留まることを意味し、それは不本意なことだからです。その結果、私たちはからまった「恐れ」のスパイラルを行き来することになります。
私たちは「恐れ」を悪いものととらえがちです。けれども「恐れ」の目的は私たちの人生にとって否定的な存在であることではありません。「恐れ」は保護的な役割があります。その役割は私たち望む道を妨害するのではなくて、私たちを災難から守ってくれます。「恐れ」は私たちの味方であって、敵ではありません。「恐れ」がやって来たら、それは何かを伝えに来たからです。「恐れ」は仲間であって、私たちにとって役に立つことを示してくれます。それは私たちのことをもっとよく知っている権威的な存在ではありません。このとき鍵となるのは、その声に耳を傾け、前向きな力を与えてくれる「恐れ」を感じて、お互いの関係を築くことです。ウィリアムソンの引用はそんな「恐れ」の深い意味を表し、深い真実を発見する鍵となります。
自分の「恐れ」について気付くと、たとえそれが非合理的でも、とても現実味をおびてきます。しばしば考えるべきでないと思っていても、その気持ちを簡単に無視したり、抑制できず真正面から向き合います。「恐れ」がどこからやってきたのか、なぜこんなに現実味をおびているのか理解できません。自分の態度を変え、魂の望むものを探求していても、「恐れ」は私たちをその裏側へ引っ張り込み、予期せぬ時に姿を現し、目指す方向と逆の方へ引っ張ります。
もしかするとはっきりした答えは出ないかもしれません。けれども頑張って自分が何を恐れているのか問い正してみましょう。次回は「恐れ」とどう向き合って、乗り越えるかじっくり考えていきます。
恥ずかしいという感覚や、恐れという感情は、自分といういれものの輪郭を薄くコーティングしているもののようにも最近感じられるようになってきて、日常に出会う事柄に別の見方ができるようになりました。もう少し、自分の周りの事柄と溶け合いやすくできるよう、このコーティングが薄くなるようにちょっとずつやってみることにしました。
あるときに「毎日ひとつ、怖いと思うことを実践してみる」というのを本の中にみつけました。やったことがないことにチャレンジする、
単に、いつもは使わない時間のかかる道の方を選んで歩いた、というだけなのですが、その道の景色はいつも通る道よりも、もっと景色が開けていて朝歩くにはきもちがいい、ということは知っていましたので、実践に移して一日をスタートさせました。
以前から私は上司に、相談するかどうか考えていた事柄があったのですが、ただ話してみるということでも、そのときやや勇気がいりました。
このときのきもちはといえば、誤解を恐れずに、今おかれている状況を伝えておく必要がある、と判断したからなのですが、上司が常に説明を惜しまない人間性を持っていて、話しやすい雰囲気を自分から作ったり、きちんと部下の様子をみてくれているということをいつも感じながら仕事をすすめられたために話そうという気持ちになっていました。
持ち前の明るさや、気前のよさは言葉を発する前に雰囲気として出ていることがありますが、仕事をする上でのパートナーシップは、小さなやりとりからでもすでに積むことができるものかもしれないな、とそのとき思いました。
話し出す寸前までは恐れでいっぱいですが、自分が恐れているきもちにも理解を示して下さり、受け止めて問題とともに歩こうとしてくれているという心に対して自然に感謝のきもちが湧き起こってきます。
ここでは部下として上司に、感謝をしていますが、同じように上司である方も部下の意見にそんなきもちになることもあるのかな・・・
と想像してみました。そのほかたとえば、顧客が店員に商品の不便な点を相談する、なども含まれそうですね。
話す前に、結果を想定するからこそ恐れという感情が湧いてくるので、コミュニケーションの場合それは自然なことかもしれません。
ただ人生には想定外のことや、全く予測のつかない方向から楽しいものが転がり込んでくる場合も多いので、そんなときは一瞬半信半疑でもありますが、一歩踏み出すのに躊躇しているのは出会う機会を躊躇しているのと同じくらいもったいない話だな、と最近よく感じています。
恐れているきもちを持つ自分、というのも受け入れて、自分や周りの理解をひろげながら少しずつでも歩いて、アプローチしていくことは、新鮮な感覚を呼び覚ますきっかけになるのかもしれませんね。
また、自分がそのきもちを持ったことで、乗り越える感覚を知り、周りの人への共感も深まるのではないでしょうか?
第4回 Daijob HR Club 交流勉強会レポート 国際的職場環境におけるコミュニケーションスタイル

 

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