天然水で健康生活!
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このページはハイパーコンテンツビルダーが 2008年 07月 15日 23時32分07秒 にクロールしたキャッシュ情報です。
に従いとは?
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本日の聖書の箇所、18節に「イエスがひとりで祈っておられたとき」とあります。私たちが祈祷会で祈る時には何人かの兄弟姉妹と一緒に祈りますが、この時イエスさまは弟子たちと一緒だったのに「ひとりで祈っておられた」とあるのは、イエスさまの祈りが神さまとの一対一の真剣勝負だっとことを強調されているのでしょう。イエスさまは救い主としてのわざを、この地上の生涯で果たそうとされていたのです。祈りなくしては何も出来ない、との思いでおられたことでしょう。 私の友人が、10節から17節でイエスさまが5つのパンと2匹の魚で5000人の空腹を満たされた記事について説教をしました。5000人の人々がイエスさまのお話を聞いていましたが、やがて日が傾きかけたので、弟子たちはイエスさまに「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。私たちはこんな人里離れたところにいるのです(12)」と進言しています。友人の解釈によれば、群衆もさることながら弟子たち自身が疲れているから解散させたかったのです。イエスさまもお疲れになっておられたことでしょう。力を得るためにイエスさまは一人静かに祈ろうと湖を一人渡って行かれました。そして、先回りをしていた弟子たちを見つけて群衆がその後に押し寄せていたのです。弟子たちも「またか」と最初からうんざりしていたのではないでしょうか。牧師も「そろそろ休ませてほしい」と思っている時「先生、ちょっといいですか」と信徒の訪問を受けることがあります。「またか」と思っても、そんな時こそ恵みの時なのだろうと思います。 イエスさまは次第に受難の時が迫り、祈りが必要となって来ています。さすがにイエスさまも人々がご自分のことを何と言っているか気になられたのでしょうか。それを知りたいとお思いになった、というよりもむしろ、弟子たちにご自分が何であるのかを悟らせたくお思いになったのでしょう。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているのか(18)」と弟子たちに尋ねられます。イエスさまがなさった5つのパンと2匹の魚で5000人の空腹を満たすという奇跡をみて、群衆は、これはバプテスマのヨハネの再来だ、預言者エリヤだ、昔の預言者の再来だ、と騒ぎだします。エリヤはバアルの預言者の祈りと比べ、エリヤの神こそが本物だと証明した預言者で(列王記上 18:16-40 参照)終わりの日に遣わされる預言者として人々に知られ、待望されていたのです。またヘロデの不義を糾弾したために捕らえられ、処刑されたヨハネ、世を裁く者、抑圧された民を解放してくれる者の再来だと思っていたのでしょう。そこでイエスさまは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか(20)」と弟子たちに問いかけられます。一同、困ったことでしょう。ペトロはすかさず「神からのメシアです」と答えた。それは深く考えてのものではなかったのではないでしょうか。いささか軽薄な告白だったと思います。しかし、多少軽薄であったとしても、告白することによってその言葉が、告白が本当のものとなっていくのです。多少の迷いがあっても、信仰は告白した方がいい。後から肉付けされて行くものです。法律家になろうとしていたルターは、ある時あまりにも激しい雷鳴に思わず「聖アンナさま(マリアの母)、助けて下さい。助けて下さったら献身します。修道院に入ります」と言ってしまった。そしてその通りになったのです。口からの出任せであったにしても、そんな約束をしたことによってルターは優れた神学教師、修道院長になり、やがて「人は行いによるので ペトロが「あなたは神からのメシアです」と告白したその告白がいかに軽薄なものであったとしても、その告白が大事な展開に導きます。このペトロの告白は、当然「わたしはメシアであるあなたにどこまでも従います」との決意を伴います。エルサレムに入り、捕らえられ、十字架につけられたイエスさまに従う、それが「あなたは神からのメシアです」と告白した者の歩む道です。自分は助かりたいと思い、自分を大切にする者はイエスさまをメシアと信じ、イエスさまに従うことはできません。イエスさまは言われます「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい(23)」と。これは自分の一切を捨て、イエス・キリストに任せ、委ねる、そう信じる者のとる道であり、そう信じなければできない道です。 私は先ほど、ペトロの告白は軽薄じゃないかと言いました。イエスさまはそれを恐らくご存知だったと思います。イエスさまは「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に来るときに、その者を恥じる(26)」と言われています。イエスさまが捕らえられて、大祭司の家の中庭で焚き火にあたりながら遠目に眺めていたペトロは、女の人に「この人も一緒にいました」と言われ「わたしはあの人を知らない」と、イエスさまの弟子であることを恥じたのです(ルカ 22:54-60)。自分可愛さが出てしまったのです。しかし「あなたは神からのメシアです」と告白したことが、結局彼を救うことになったのです。鶏が三度鳴いた時、ペトロは外に出て激しく泣いたのでした。それによってペトロは自分がなした信仰告白に立ち戻り、主イエスの復活に出会い、さらにペンテコステのあの時に聖霊を受け、弟子たちを代表する説教者、伝道者に変身したのでした。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたイエスさまに従う者となったのです。 私たちの生活は苦労の多い大変なものです。お金があれば大丈夫と思っても、お金があればあるで、心配もあり、悩みもあります。そうであるならば。私たちは自分のことで汲々とするのではなく、自分の一切をイエスさまに委ね、任せて行きたいものです。私たち人間は自分のためだけでなく、家族のために仕事をします。働きます。しかし、本当はその仕事を通じて神さまの栄光を現す、神さまに造られた者であることを喜び、神さまの恵みを証して行く、それ牧師に限らずすべてのクリスチャンの仕事の意義です。確かに私たちの仕事はそれぞれ違っていたり、また同じ仕事であっても、その仕事への関わり方の違いがあります。そこには自分を捨て、自分の十字架を背負いながら、その仕事を通じて神さまの栄光を現そうとする道、生き方があることも確かなことです。どうかこのことを覚えて日々の仕事に、あるいは家事に励んで頂きたいと思い、願うものであります。 |
[ 128] 28 老いては子に従い
[引用サイト] http://www.sol.u-coop.or.jp/suzuki_eye_clinic/hitorigoto/motto-hitorigoto/hitorigoto-28.html
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多少の浮き沈みはあれ、昨日と同じような今日が過ぎて月日は流れていきます。昨日となんら変わることのない今日なのに、去年と同じような今年が過ぎていったのに、何故かそれを10年という単位で振り返ったとき、そこにはけっして同じようなとは言い切れない流れを感じます。ちょっと、身体に不調を覚えると、なんでもかんでも「更年期のせい?」と思ってしまうこの頃の自分がいます。下から押し上げられて「未熟のもで・・・。」と逃げられない立場に立たされた自分がいます。周りに纏わり付いていた子供たちも一人二人と自分の足で歩き出し、来年は末の子も巣立つ予定です。今までは、子供の教育、進路が話題の中心だった友との会話も、いつの間にかこれからの自分自身の生き方、老親の心配や介護へと様変わりしました。 そして、見えてくるのが親との軋轢に悩む子の姿です。中々、子の意見に耳を傾けてくれない、聞き入れてくれないと悩む友のなんと多いことか。翻って我が親を見ると、自分で言うのもなんですが、これが実によく出来た親で、未だに子のため、孫のためと頑張ってくれています。母などは、女の三従の教え「即ち家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う」さながらの女の鏡(?)、今は気の強い娘に翻弄されながらも、小さな声で文句を言いながらも笑顔で尽くしてくれています。有り難い限りです。父にはよく従いましたが、夫に従いきれずに挫折した私に残された従はあと一つ。「老いては子に従い・老いては子に従い。」と今から一生懸命に言い聞かせています。 そんなこんなで「老いては子に従え」が今のところ私の仲間内では大勢の意見となっているのですが、一つ問題が生じました。「でも、何時、自分は老いたと判断するかよね。」確かにそうです。孫が出来たから老いたと判断するものでもありませんし、仕事を辞めたから老いたと決めるものでもありません。「老いては子に従う」のは簡単かもしれませんが「自分は老いた。そろそろ、子に従わなくてはいけない。」の判断はそう容易なことではないように思えます。そして、私にはもう一つ問題があります。三人の子の内、どの子に従うかです。上から男・女・女の三人ですから、一般的には長男かなと思い息子に聞いてみました。「赫々然々なのだけれど、母は誰の意見に従ったらいいかしら?」と。私としては当然「僕だよ。任せておけ!」という答えが返ってくると思ってのことでしたが、なんと息子の口からでた回答は「さとみだな。」と長女を指名するものでした。これは、長女だけが医学部に進学していることから発したもののようですが、母としてはがっかりしてしまいました。結局、何時まで経っても老いたと自覚することも出来ず、どの子に従うかも定かでなくて右往左往し、周りの皆さんに目いっぱい迷惑のかけ放題で生きている未来の自分の姿が見えるような気がします。 あと、僅かな平成18年もいつもの様に暮れ、来たる平成19年もいつものように無事過ごせますように・・・。 |
[ 129] J21
[引用サイト] http://www7.ocn.ne.jp/~bereshit/j2122.htm
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15節から17節のところで、主が「わたしを愛しているか」と、ペトロに三度同じことを聞いた時、最後に、「わたしの羊を飼いなさい」と言われたことと共に、「わたしに従いなさい」と命じられた、それは19節、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた」。 そしてそのすぐ後、主とその愛する弟子のことが兄弟たちの話題になった時、ペトロもその弟子のことが気になった。けれども、主はペトロに再び命じられた、22節、「あなたは、わたしに従いなさい。」 イエスを愛し、教会を牧する務めは、「キリストに従う」、即ち「キリストに倣う」ほかには途のない使命である。そのような意味で、前者は「キリストに従う」ことがペトロに、そして現代の牧会者にも強く求められている。牧会者自身がキリストには従っていない場合がある。その人は自分の欲に従っている。ところが、その辺のところは信者が一回や二回牧師と会ったところで正確に分かるものではない。 牧師招聘の際も、ほとんど1回、「お見合い」と称して面接をして決める。「お見合い」という言葉は業界用語の隠語になるので相手の牧師に使うのは失礼になる。正式には「面接」である。どういう牧師かは1年過ぎてみないと分からない。だから祈りのうちに決断するしかない。判断基準の第一は、神の言葉が正しく宣言されているかどうかである。説教で神の言葉が正しく語られていないということは、教会にとって最も不幸である。 人間的に楽しい、優しい、よく動く、高学歴であるということは基準ではないし、基準としてはならない。実際にはそこに目が行ってしまう。そこにポイントを置くならば、監察している人自身の信仰がばらけているのである。わたしたちは何を見るべきか、その牧師が御言葉に聞き、従い、宣言しているかどうかである。御言葉の宣言が重要なことであって、説教が御言葉の説明や感想に留まっていてはならない。 v.22では、「あなたは、わたしに従いなさい。」と言われている。ギリシャ語原典で19節と22節の両者を比較する限り、その文脈から見ても、後者では、「あなたは」という言葉が強く感じ取られる。重要な文章にも関わらず、「あなたは」という言葉が前者には無く、後者には加えられているからである。 というのは、「イエスの愛する弟子」というのは兄弟たちがそのように見たのであって、イエスは弟子の皆を愛されたのであり、イエスが愛されない弟子などいようはずがない。しかも、イエスが特に用いられたような、名声を上げる弟子もいるかもしれない。逆に、冷や飯を食わされたように、一生名もあがらないような不運な弟子もいるだろう。地上での名声はそれで終わる。 「わたしの来るときまで彼が生きている」、これはキリストが再臨するときまで誰かが生き続けている、ということで、そういうありもしないことを一部の弟子たちは考えた。しかし、メシアに愛されるとはこれほどのことが起きるのだという信仰があったとしても不思議ではない。メシア信仰はこの世を変えるほどのものであった。勿論、その信仰はキリスト御自身の思いとは違っていた。 ただ、大事なことは、「あなたは」どうするのか、である。あの人、この人がどのような教会で、どのように用いられるかは、あなたにとって何の関係もない。あなたは、誰で もない、キリストに従っていくのかどうか。人の声に従って、名をあげることは易い。けれども、ただキリストに倣いて、その結果、名もあがらず、貧しく、痛みを持ち、そういう不運な者は幸いではなかろうか。 |
[ 130] 預言者に従いその後を続く者達
[引用サイト] http://www.isuramu.com/essays/brokenpot_18.htm
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預言者に従い、その後を歩もうとする時には、存在そのものをどのようにとらえ、どのようにそれに近づくかを注意深くよく考えることが必要でしょう。万物を観察し、得られた証拠から出発して、真の主に到達するのに相応しい接近法は、最初に創造者の存在を認め、受け入れるやりかたです。(すべてはそこからはじまります。)これとは逆に、(人間を中心にして存在を捉える場合)自分になにかを与えて存在から(主の属性を中心にして捉える場合)「すべての恵みを作り、与える真の主(ムンイム)」を認識すること、又は「恵み」から「すべての恵みを作り、与える真の主(ムンイム)」を認識する方法 ですが、これは人々を道の途中で足踏みさせる原因となる事があります。自然主義者達や物質主義者達の考え方が行き詰まりを見せているのは、この例に当てはまるでしょう。 そうです、始めに完全なる存在者であられる真の主(アッラー)を認め受け入れる方々は、見るものすべての中に彼(アッラー)を見出します。木々や枝々の中に、果実や葉の中にそして種の中にも・・・マクロからミクロの世界に、又その逆に小さなものから大きなものあらゆる物の中にただ彼(アッラー)のみを観ます。これはちょうど、文字や単語から文全体の書体や特色を知る事ができるのにています。 特にオスマントルコ語ではたとえば「メクトゥブ」と言う単語はミクトゥーブとかミュクトゥーブ等いろいろな発音は考えられません。なぜならオスマントルコ語は音節ではなく決まった型によって見分けられるからです。速記のように決まった型があり、それぞれの型を記憶なされば、単語をご覧になった時、正しく発音ができます。このように存在を全体として、彼(アッラー)に結びつける事ができる方々、又は繋がりが生じたその時からずっと完全なる存在者を信じる方々は、いつでも彼を見、彼を知り、彼を感じます。 これが預言者の見方、知り方、感じ方であり、存在するものを正しく理解すると言う事です。存在をこのように理解なさる方々はアッラーをより多く知る事ができるようになります。アッラーへの知が増せば増すほど、考え方や視野もより深まり、ついにはその日がやってきます。そうです、彼の御力、ご意志、御望みそしてすべてをお聴きになりご覧になっている彼の存在そのものに、自分自身が囲まれている事を見出すのです。そして、これらの恵みをお与え下さる主に熱愛と感謝を込めて近づくことでしょう。 存在するものをこのように捉える事のない方々は、彼らの上に夕立のように降り注ぐ恵みに対して横柄な気持ちを抱き、あつかましくなり、増長してしまいます。偉大な先人の書かれた本の中にも幾つか例が述べられていますが、人間は多くの恵みの中にアッラーを見出し、永遠ではなく、つかのまを生きる存在であるのに、それらの恵みに自分自身が到達したと思い、これらの恵みは得られるベくして得られた報奨だと勘違いしてしまうことがあります。ですから、アッラーに対して尊敬を保ちつづけ、増長しないようによく注意しながら、アッラーへの感謝の念で心を満たすこと、私達を増長させるくらい多くの恵みを次から次へと豪雨のように降りそそいでいただいても、恵みに対して増長しない事、それらの恵みをお与え下さる私達の主に真剣に感謝の意を表することが必要です。 アッラーが人間を鏡としてお造りになられたのでしたら、人間は鏡になる事を知るべきです。すべての態度で、行動のすべて、言葉のすべてで、そしてすべての考えで、常にアッラーを思い、人々にも思い出させることができるように、心がけるべきです。これが預言者に続く者達の態度です。そうです、預言者達はすべてこのように行動なされ、このようにしてすべての人間に対し光を保ち、放ちつづけ、皆さんの模範として、生き続けられました。これは預言者の後に続く者達の呼びかけでもありますし、この呼びかけに応えなくてはなりません。歴史が証言するように、この呼びかけに応えたものたちは、道を間違えることなく、騙される事もありませんでした。 要約しますと、預言者に従い、彼のように捉え、考え、感じ、アッラーと結びつき、すべてをアッラーに仕えるしもべである事にのみ帰し、スンナの光のもとに問題を解決する事が大切であり、と同時に、私達自身が安楽さと無気力さに陥る事から遠ざかるために、私達は預言者の後に続く者達を必要としているとも申し上げられます。 |
