天然水で健康生活!
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このページはハイパーコンテンツビルダーが 2008年 07月 15日 23時32分08秒 にクロールしたキャッシュ情報です。
雲上とは?
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山中で仙人暮らしをしています。たまには Hot な news でも知っておかないと時代に取り残されるかな? 【3月15日 AFP】インド・カシミール(Kashmir)地方スリナガル(Srinagar)のBadamwariでは14日、サクラによく似たアーモンド(ヘントウ)の花が咲き、冬の間は厳しい寒さが続いていた同地でも、ようやく春の兆しを感じられるようになってきた。(c)AFP 【2月21日 AFP】緊急ニュースです―地球は死滅する太陽の熱で焼かれ、やがて太陽に飲み込まれてしまうでしょう。≫続きを読む…(c)AFP 【12月16日 Contentslink】(12月17日 一部修正)12月11日夕方、ソウル江南(カンナム)区ノンヒョン洞にあるスタジオで、映画『セックス・イズ・ゼロ2』の水泳部のコーチ役でスクリーンデビューを果たした女優のイ・ファソン(Lee Hwa-Sun)のスター写真の撮影現場が公開された。≫続きを読む… 日の出、日の入りを見た人は数多けれど、地球の出、地球の入りを見た人は、今回「かぐや」の映像で初めてであろう。 「地球は青かった」という言葉を残した宇宙飛行士は有名だが、こんなに美しい地球の映像が見ることが出来る時代になったと思うと、本当に人間は偉大である。 どちらも本当で、賢さと、愚かさを併せ持つのが人、人間、人類であると思うと、地球の出、入りを見るのと同じくらい不思議さを感じられずにはいられません。 【10月14日 AFP】西欧最高峰のモンブラン(Mont Blanc)山の標高が、頂上付近の積雪量の増加により高くなっている。≫続きを読む…(c)AFP 近年は環境汚染の影響で、日本においても春夏秋冬の四季の変化に異常がでている。 このまま放置すると、日本古来の素晴しい四季の変化が見られなくなり、紅葉や桜の開花の季節にも影響を及ぼすという。 日本だけでなく、先進国や開発途上国が主体となって、環境問題に取組んでいかねばこの美しく素晴しい地球の汚染が進み、後世の人達に汚点を残すことは避けねばならない。 8月に入り今週は、74振りに日本最高気温が更新されるほどの暑さが続いています。水分補給を摂取し熱中症にお気をつけ下さい。 62年前には沖縄戦をはじめ、6日は廣島に、9日は長崎に原爆が投下され多くの戦争犠牲者をだし、15日に終戦を迎えました。 この終戦の日も暑い日だったと聞きますが、経験者は戦争を風化させることなく末裔まで語り継いでいく義務を背負っていることとおもいます。 戦後生まれの私達にとっては、戦争という真実を語り継いでいく自信はありませんが過去を学んで真実を知り、過ちを二度と繰り返さないようしなければなりません。 21世紀になった現在もいまだ世界のどこかで戦争・内紛が絶えませんが、人類の平和が訪れることは不可能なのでしょうか?それほど人類は愚かなのでしょうか? 地球という美しい天体を、環境破壊させるのも人間。またこれからの未来にむかって創造し続けるのも人間。 2007年ミス・ユニバース世界大会が28日、メキシコ市で行われ、日本代表のバレエダンサー、森理世(りよ)さん(20)(静岡市出身)が優勝。 日本代表が優勝したのは、1959年の児島明子さん以来、48年ぶり2人目。昨年の大会では、知花くららさんが2位に選ばれている。 「ミス・ユニバース・ジャパン事務局」によると、森さんは、4歳からダンスを始め、バレエを学ぶため高校からカナダに留学。ブロードウェーの舞台を目指し、米ニューヨークでもレッスンを受けていたそうだ。 20世紀は戦争の時代といわれたが、21位世紀になっても戦いの方法は違っても、いまだに人は愚かなことを繰り返している。 ヒーローとしての活躍がようやく世間に認められ、ニューヨークの市民から愛される存在となったスパイダーマン(トビー・マグワイア)。 私生活では、MJ(キルスティン・ダンスト)との結婚も秒読みに入り、ピーター・パーカーの人生は絶好調だった。 しかし、警察からもたらされたある衝撃的な真実が、ピーターの心をかき乱す。最愛の伯父ベンを殺した真犯人が別に存在し、その男=フリント・マルコ(ト−マス・ヘイデン・チャーチ)が刑務所を脱獄し、現在逃亡中であると。 激しい怒りに燃え、復讐心を募らせるピーター。そんなピーターに、ある謎の黒い液状生命体がとり憑く。その黒い液状生命体は、スパイダーマンの衣装を黒く染め、パワーもスピードも今までと比べられないほど強力な“ブラック・スパイダーマン”へと変化させてしまう。 【東京 13日 AFP BB News】原作はリリー・フランキーが亡き母への思いを中心に、親と子、社会と個人、時代によって変わるものと変わらぬものの姿を、真っ正直に綴った自伝小説。≫続きを読む…(C)AFP BB News/ 1960年代。3歳のボクは、遊び人のオトンを捨てたオカンに連れられ、小倉から筑豊のオカンの実家に戻ってきた。オカンは女手ひとつでボクを育てた。オカンの作る美味しいご飯を食べて、ボクは成長した。15歳になって、ボクはこの町を出て行きたくなった。大分の美術高校に入学し、東京の美大をなんとか卒業するが、仕事もせずに、仕送りしてもらい、更に借金を重ねていた。そんな中、オカンが癌に侵されていることが分かった。 ベストセラー小説でTVドラマにもなった「東京タワー」が映画に。原作は、リリー・フランキーの自叙伝的な作品だが、映画では主人公<ボク>を、リリー・フランキーなんだろうなぁと思わせてはいるが、そうと設定せず、あなたの物語としている。<オカン>に、苦労かけていると分かってはいても、ダメな自分を変えられない<ボク>に<オトン>。それは、誰もが若い頃の自分に思い当たることではないだろうか。ドラマチックなようでありながら、ありふれた物語が詩情あふれるナレーションを挟みながら展開される。オダギリジョーのいい意味で力の抜けた絶妙な存在感がいい。樹木希林演じる、強くて愛情深いオカンは、生涯記憶に残るだろう。 |
[ 172] 雲上四季
[引用サイト] http://d.hatena.ne.jp/sinden/
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将棋が好きで、将棋を扱った作品が好きで、それで『しおんの王』を読み始めたのですが、物語が進むにつれ、漫画としての本質が推移してゆくのが見えたような気がしました。将棋を軸にした漫画から、棋士を軸にした漫画へと。『ハチワンダイバー』は言わば将棋バトル漫画ですが、『しおんの王』は棋士バトル漫画と言えるかもしれませんね。将棋が目的ではなく、棋士同士の戦いを描くうえでの手段となっているように感じました。そして、人間ドラマに焦点を当てた後半にこそ魅力を覚えた秋山は、実は今まで将棋が好きだと思いこんでいましたが、ほんとうは将棋ではなく棋士が好きだったのかもしれないと思いました。 『アヴァン・ポップ』は未読です。読んだ方が、より深いレベルで議論が可能かもしれませんが、そうすることによって返信を遅らせてしまうのは勿体ないと判じました。必要があれば読みます。 夏目さんの返信を読んで、夏目さんの「文学」に対する強い思い入れを感じました。そして、その思い入れが、夏目さん自身にも気づかせないうちに恣意を生み出してしまっているようにも感じました。 率直に伺いますが、どうして「思想的な意味、あるいは方法論的な意味」を含む言葉として、芸術ではなく「文学」を選択したのでしょう? だからこそ、「文学」をやりたいなら何も小説である必要がないのです。その思想、その方法論は音楽や絵画にも応用可能なのです。ならば、作者の想定するテーマに一番見合った方法を選択すればよい。 こちらに関しては、全く持ってその通りだと思います。たとえば楽譜はある意味で言語であるでしょうし、絵画はある意味で記号です。そこに文学があるかもしれないことを否定はしません。けれど、同様に小説にも音楽と美術は宿ります。リズム感に溢れる小説や詩歌には音楽があるかもしれませんし、字面に工夫を凝らした小説には美術が見いだせるかもしれません。つまり「文学」の代わりに、別に「音楽」でも「美術」であっても、それは言葉の問題であって、本質は同じであるように思うのです。であるならば、「文学」と命名するより、ただ単に芸術、もしくは「芸術」とした方が自然です。 また、確かにマキャフリイが「アヴァン・ポップ現象」を考察するにあたり、最初に考えたのが「ポストモダン小説の手法」であり、それは、どちらかと言うと音楽や美術よりも文学に分類されるであろう概念かもしれません。けれど、夏目さんの引用を読む限り、アヴァン・ポップとは「ポップアートが消費財とマスメディアに焦点を定めてきた傾向とアヴァンギャルドが境界侵犯的転覆の精神のもとに過激な形式的手法を採用してきた傾向とを融合させる方法論」であり、その本質は美術に分類されるように見えます。また、アヴァン・ポップという言葉が、アルバムのタイトルに由来することを考えると、音楽に分類されるのも、おかしくないように感じます。 以上、2点を考慮すると「思想的な意味、あるいは方法論的な意味」を含む言葉として「文学」という言葉が選択されるのは、不自然であり、何らかの恣意が混在しているように思えます。ここで最初の問いに戻ります。夏目さんが「文学」という言葉を選んだのは「文学」がそういうものであるという結論が先にあり、その結論に辿りつく論理として『アヴァン・ポップ』を無意識のうちに選んでしまったのではないでしょうか? では、それでもなぜ私たちは文字で表現することを望むのか? 前回は小説としましたが、もう少し範囲を広げましょう。文字で表現することの利点とは一体なんなのか? ここからスタートするほうが、適切ではないかと秋山さんの返信とお互いの第一信の反応を見て思いました。 秋山が思うに、文字では「文学」を表現できません。いえ、これはさすがに言いすぎですね、撤回しておきます、出来なくはありませんね、ぐらいのニュアンスで。 いきなりニコニコ動画を引用して恐縮ですが、例えば『【初音ミク】なんだかとっても!いいかんじ(長編)【オリジナル】』に出てくる文字であれば、或いは単体で「文学」を表現することも不可能ではないでしょう。 いかがでしょう。この動画に出てくる文字であれば「文学」を感じとることが出来るかもしれません。とは言え、これはさすがに例外というような気もします。 秋山の中で、文字は小説の構成要素のひとつであり、範囲という意味で言えば、小説より狭くなります。以下の図をご覧ください。 いちばん大きな枠として小説があります。小説は複数の章により構成されています。そして章は複数の段落から、段落は複数の文章から、文章は複数の文字によって構成されています。実際には巻・場面・文節・語句・字形といったものもあるでしょうが、全部を図に入れると、返って見難いことになるので、ここでは絞っています。 そして前述の通り、文字単体で「文学」を表現するのは不可能……とまでは行きませんが、かなり難度が高いと感じています。では、複数の文字からなる語句や文節では、いかがでしょうか。これも文字と同様に不可能ではないでしょうが、やはり基本的には無理であるように思います。その理由は、文節程度では「文学」を媒介させるのに充分なリソースを持っていないからです。 感じることが出来るのであれば、それはそれで構いません。感受性が豊かなのは喜ばしいことです。ですが、秋山の想像では、大多数の人間は、文字単位では「文学」を受容できません。 伝わってきませんか? 秋山には伝わります。極めて主観的ではありますが、秋山にとって文章は「文学」を媒介するに足るリソースを持っています。 無数の白い風船が放たれ、次々と縺れ合いながら街の上空高く消えて行くのを、男と女は固く手を取り合ったまま見つめている。海図のない午後。 ちなみにこの作品は、超短篇500文字の心臓で行われたトーナメント「Microstory Grand-Prix 2006」の決勝戦に寄せられたもので、著者は、はやみかつとしさんです。無断で引用させて頂きましたこと、ここにお詫び申し上げます。 そして、夏目さんの言う「文学」は、秋山の考える芸術と等号の関係にあるかと思われます。「文学」でも芸術でも、まあ、言葉は何でも構わないのですが、夏目さんの次のお返事では、それが何であるかをお伺いしたいと思います。よろしくお願いします。 ここ最近、波紋*1を中心に、夏目さんは興味深い発言を繰り返しており。その様子を傍から見ていて、夏目さんとコミュニケーションを取ることで、文学に対する理解が深められるのではないかと思い、往復書簡を誘ってみました。往復書簡とは言え、はてな上で行うので、実際にはトラバの送りあい、という認識が正しいでしょうし、横槍が入ったり、乱戦になったりするのも面白いかもと漠然と考えています。まあ、自由に楽しんでください。 芸術という極めて大きな概念があり、文学や音楽などはその内側に含まれ、小説や演奏などは、さらにその内側に含まれる、といった具合です。とは言え、いついかなる場合も、この図が適用されるわけではなく、たとえば歌詞などは文学と音楽の領域を跨ぎますし、演劇も視覚に訴える美術と聴覚に訴える音楽の双方の要素を併せ持つように思います。それに、文学における小説を小説以外の形態で、つまり音楽や美術で表現するといった事態も想定されます。従って、必ずしも芸術というレイヤーが最下層にあり、その上層に文学が、そのさらに上層が小説があるとは限りません。時には、小説が文学や芸術といった親を含むこともあるでしょう。 朗読や文学と芸術の融合などは昔から行われていたことで、格別、珍しいことではありません。さすがに文芸誌にCDがおまけされたのは、史上初かもしれませんが。 他分野の人間が、文芸誌で評価されるのも今に始まったことではありません*2。また「元○○という人」が「文芸誌のフィールドで活躍」することが、どうして「『文学』というものは演劇にも音楽にも、あるいは美術にも宿っている」に繋がってくるのか分かりません。 文芸誌の創刊についても同じくです。リンク先を見てみましたが、そもそも文芸誌ではなく中間小説誌もしくは大衆文芸誌ですし、定期的に刊行されていないものもありますし。年に数種類の雑誌が短期間のうちに創刊されることは、けして珍しいことではありません。 夏目さんの「何も『文学』をやるのにその手段が『小説』である必要はない」という結論には賛同できますが、その結論に至るまでの論理は、よく分かりませんでした。 小説とは何か。いちばんしっくり来ると思われる、分かりやすい言葉は、媒体、でしょうか。現実には存在しない、目に見えず、触れることもできない文学を、見たり触れたりできるようにさせてくれるもの。それが小説。秋山はそう考えています。 最後にひとつ要望を。鉤括弧を、引用や異義語の区別化以外の用途で使うのはやめていただけると助かります。よろしくお願いします。 *1:定期的にテーマを決め、競作することで、互いに切磋琢磨することを目的とした文芸サークル。主にmixi内で活動中。 *2:そもそも、文学と文学以外を区別することにも意味を見いだせませんが、それは置いておきましょう。 宇宙で生まれ育ち、まだ地球へは降りたことのない「30年後の18歳」が歌うというコンセプトを持つからコンセプチュアル・バンドなのであろう。字面からコンセプチュアル・アートを連想しましたが、特に関連性はないらしいです。 石黒正数『ネムルバカ』にあった、ボーカリストの正体を伏せて、話題を喚起するというプロモーション方法も、このコンセプチュアル・バンドに近いような気がしますが、音楽業界において、こういった演出で新人や、新バンドを送り出すのって多いのですかね。小説では、覆面作家ぐらいしか例がないような気がしますけれど。 まあ、そういう外枠はさておき、先日、id:kazutokotohitoさんが初音ミクのオリジナル曲には「初音ミクが歌っている」という物語が付与される、というようなことを言っておられて、へえと思いました。例えば『メルト』はただの片想いの曲であるだけでなく、片想いをしている初音ミクの曲でもある……ということだと思います。 キャラクターソングも似たようなものかもしれませんね。『雪、無音、窓辺にて。』も、ふつうに聴けば、ちょっとふしぎな曲ですけれど、『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んで、長門有希を知ってから聴くと、だいぶ異なる曲のように受け止められるかもしれません。 とまれ、上記のようなことを考えながら元気ロケッツを聴いていましたら、なるほどと思わないでもないです。英語の歌詞も、そのうち宇宙語のように聞こえ始めてくるふしぎ。 向島百花園という、浅草の近くにある庭園で開催されたのですが、どうやら江戸期において数寄者な方々が百物語を楽しんだ場所であるらしく、雰囲気はバッチリでした。 百物語を試みるのは、初めてのことでしたが、居心地はけして悪くなかったです。これと言った怪異が起こることもなく*1、粛々と進行したのですが、退屈さを覚えることはなく、最初から最後まで、一定の好奇心を抱いたまま怪談に耳を傾けることができました。残念ながら、時間の制約上、百話を達成することはできず、七十数話までしか出来ませんでしたが、まあ、満足度は高かったです。 百物語の後は、神社にお参りし、それから近くの居酒屋で打ち上げとなりました。秋山は酒月茗さんから招待メールをいただいて参加したのですが、他の人も少なからず縁があったのか、『幽』関係者や『てのひら怪談』作家が多く参加していたように思います。普段、あまりホラーや怪談に関して語り合うことがないので、いろいろ新鮮でした。特に幽明さんと腑楽さんに知り合えたのは大きかったな、と。比較的、年齢が近しいひとと小説に関する話をすると、強い刺激を受けますね。 秋山はその話は勿論、基本的に参加者が語っていた話は、全て実話だと思っていたので、ちょっとしたショックを受けました。その後、冷静になって振り返ってみると、確かに実話にしては工夫が施されすぎで、脚色が過ぎるような気がしないでもありません。けれど、同時に、あの場においては嘘が真実になってしまいそうな雰囲気が漂っていましたし、何よりも現実と空想の境い目が溶けあっていました。 夜中にちょっと金縛りにあったという話から、生首に噛み付かれたという話まで。突飛なものだけを聞けば「んな訳あるか」と冷静に対処することが出来るかもしれませんが、それ以前に様々な怪異を聞いてしまっているのです。それに、語り口が軽妙であればあるほど、嘘っぽい話も真実味を帯びてきます。 いずれ機会があれば、酒を飲みつつ、夜を徹して百物語に挑戦してみたいですね。疲れと酔いにより、オーバーヒートした脳がいかなる幻想を見せてくれるのか。気になりますね。 *1:後に料理男さんから伺ったところ、秋山が語っていた最中に、腰の当たりを人魂が漂ったらしいですが、まったくこれっぽっちも気づきませんでした。 |
